「障害受容」と「兄妹児」に関して(後編)

娘との日々の記録

 先日は兄妹児についてと題しながら、『息子の障害受容』 について書いてしまいました。というのも、「兄妹児にどう告知をするのか」という点で悩んでいて、そこには『自分の発達障害の受容』とあわせて『兄の障害受容』という二つの視点が必要だったからでした。

 娘はまだ3歳。ただ、近い将来、『告知』をしなければいけない日が来るので、それをどうしていくのかは早い段階から考えないとなりません。なぜなら、なんとなくの日々では「娘を苦しめる可能性もある」からです。僕は、色んな障害のある家庭を知っていますが、兄妹児に関しては、凄く難しい側面があると思っています。

 ただ、僕は、兄妹児についての謝った捉え方をしている可能性が非常に高いと思っています。うちの娘も発達障害の疑いはあるのですが、娘に関しては「知的障害がない」分に「兄との差」が引きおこり、「抜く側(妹)」と「抜かれる側(兄)」の気持ちに最大限の配慮を持つ必要があると思っています。

『妹の娘が兄を抜くことに罪悪感を伴わないようにするにはどうしたらよいのか』

 このことはとても難しい。僕のようなおおざっぱな人間には、その配慮の難しさは分かっても、配慮の方法が浮かばない。ただ「私生活の中での親子の会話」や「親が他人(支援者や学校の先生など)と話をする際などの気配り」を、より深く考え、息子も娘も傷つかないように考えていく必要があると思っています。

 ただ、兄妹児の当事者に話を聞く機会があり、「自分の考えが浅はかである。もっと考えろ」と常に思っていることもあります。その当事者の方々で感じたことは2点あり、実際に兄弟児の中で兄が障害があり、妹が全く障害がないケースで「妹(小学生)が鬱になった」という事実をしった時に、僕はとてつもない不安に襲われました。「うちもそうなるかも」という不安でした。「小学生で鬱になる…」それは起こしてはいけないこととして自分の中で強く印象付けられました。あまりにもかわいそうに感じてしまった。そのご家庭は、とても優しい親御さんで決して冷め切った家ではないのです。たぶん、相当に親御さんも妹さんのことを考えての生活してきたのだと思うのです。でも、結果がそうなった。そのことは、僕にとっては衝撃でした。僕がどんなに配慮しても、その当事者(自分の娘の気持ち)により添えきれないのではないかという思いです。

 二人目は、成人した女性で、やはり兄が知的ありで自閉症がある方でした。その方から言われたことで、「そうだよね。それならどう考えるべきか」と考えさせられた言葉があります。それはお兄ちゃんはお兄ちゃん。生まれた時からお兄ちゃんで、そこに兄がいるのが当たり前の家族なんで、周りが頑張ってる、偉いねなんて言ってきても何がですか?って気持ちだった」という言葉を聞いた時でした。

 これはとても大切な考え方だと思うのです。その家庭の枠組みの中で普通に生活している僕らはそこに違和感を勝手に決めつけて、「兄と妹」「兄と弟」「姉と弟」という関係構図の中で勝手に差別をして、「誰が偉い」とか「無理に褒めなきゃ」とかいろいろ考えすぎてしまって、それが、結果として兄弟児の生きづらさを生み出してしまっているんじゃないかと思えるのです。別に家族の中で肩肘をたてて考え方を懲り固める必要はないのではないかとも思えます。配慮と気配りの難しさはそこにあります。あくまでも、僕ら親は、「兄妹関係のそれぞれの気持ちを知ること」は不可能だと思うのです。だって、どうやっても親からの視点であり、当事者にはなれない。だとしたら、ふたりの関係をより仲の良い家族形成を考えるだけに注力すべきな様に思えるのです。

 たぶん、当事者の方は、大学教授や本、教科書…ネットやサイトなんかで、「兄妹児」が語られるたびに、「お前らにが分かるの?知る必要もないじゃない」と思っているのではないかなと考えてしまいます。間違いかな…どうだろう。

 ツイッターの中でも学ばせて貰って、すごく考えさせられた内容がありました。それは、「良い点数をとっても親に伝えずに隠す小学生時代」(当人に許可をもらってないので内容を少しアレンジしていますが)という内容でした。

 兄弟児の中で兄を「抜く」瞬間の「抜く側」(妹)の苦しさ。それも、親のあり方の難しさがあるのだと思います。この点に関して、妻と本当によく話しあいました。Twitterを妻に見せて、「これは苦しいよね…僕が兄弟児を簡単に語るのは愚かでしかない。気持ちに寄り添うなんて簡単なことじゃない。どんなにその問題に向かい合っても、きっと僕の脳みそじゃ追い付けない。僕が兄弟児からTwitter内で仮に批判を受けても、それを僕は全面的に受け入れたいと思う」と伝えました。兎に角、親はそのあたりのことで気持ちを分かったように感じず、謙虚に向き合い続ける必要があるだろうと思っています。

 今、僕は「兄妹」の中での「障害受容」を、家族の「障害受容」として受け入れ考えていくべきという障害児家族としての新たなステージに入ってきているのではないかな?と思います。

 妻に話したのは・・・

①「障害」という言葉を捨て去る(家族で使わない)タイミングに来ている
②妹の気持ちを汲み取り、自由意志をどう作り上げるかをもっと考えてあげたい(ノウハウではなくもっと繊細に考える)
③ただただ、自分たち家族がその能力に関係なく、とにかく互いに「愛し合っている」という一本の線で繋がっている状態を維持していくこと

 正直に、自分みたいな未熟者には、考えが纏まらないテーマかもしれない。ただ、娘に願うことは、「小さくならず、前向きに、うしろめたさなんて感じなくていい。ただ、優しさのある女性に育ってほしい」その願いだけは変わらない。

 僕は「障害受容」という言葉をどうしてもネガティブな言葉に感じてしまうのです。「家族の乗り越えるべき課題」のように言われているように感じてしまう。前回のブログでも書きましたが、僕はその受容を暗く考えるのではなく、ごく普通なことのように受け入れ、「しあわせ受容」のような前向きでポジティブな受容に変えていきたいのです。そして、そのベースが出来たのなら、娘には自由選択をどんどんしてほしい。僕ら家族は、普通に「愛し合っていること」を自覚している家族になりたい。別に、「それが当たり前でしょ」と語れるような家族に。また、そんな家族になりながら、娘が何かを望むなら、それをしっかりと支援できる親にはなりたいと…僕は思うし、僕はそうならなきゃと、また気を引き締めていきたいと思います。

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