少しでも社会が理解してくれたら嬉しい『発達障害児パパママの気持ち』(後編)

息子との日々の記録




前編はこちら↓

 知的障害者への「世間の目」に耐える辛さ

世間の目に耐える辛さを理解して欲しいので、一つ例を載せます。

私の家では、ある日、こだわりであり、大好きでもある2点式シートベルト(車に使用するのは2008年に廃止になったシートベルト)の車を購入しました。ボタンが特徴的です。これが「こだわり」というのが凄いです。ずっと、この2点式シートベルトを見つけたくて仕方のなかった息子です。

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その当時(5年前くらい)、自分の車が古くなり、新しい車を買う必要があったのですが、息子が喜ぶ姿がみたくて、中古の車を買いました。息子は、よく中古車屋さんにその2点式シートベルトの車が見たくて通っていました。時には、「買わないのなら見せないよ」と手厳しい店もありましたが、多くの中古車屋さんは快く見せてくれていました。

当然に「車」ですので、「子供がこだわっているからといってその車を買う」のには躊躇がありました。でも、奮起して、こだわりであるその車(2点式シートベルトがついている車)を購入して、息子を驚かせようとサプライズを計画しました。

そして、そのサプライズの瞬間を僕の母にも見せたいと思って、僕の母を呼び出しました。そして、その車を見せる前に、僕の母、妻、僕とはるちゃんで神社にお参りに行ったのでした。

僕や妻は心が踊っていました。

息子が、中古屋に通って何回も見つめてきた車。それと同じものが、駐車場にあり、それが自分の家の車だったらどんなに喜ぶだろう…そう考えるだけで、笑みが漏れてします。息子は、駐車場に同じ車があると、その後部座席を見て、2点式シートベルトを確認するのが常だったので、当日もそうするだろうと思い、その時に、「それパパの車だけれど…」と鍵を開けるサプライズを考えていたのです。

ところが、お参りにいき、いざ駐車場に!というタイミングで、息子は、何かをきっかけにパニックになりました。
すると、母の目の前、数名の人たちの前で、息子は、大荒れのパニックで、

『ぶっころしてやる!』『首を切ってやる!首を切って下さい!!』『お腹がいりません。取って下さい』『みんな、殺してやる!!!僕を殺します!!』と叫んだのです。大泣きになりながら、足を地面に打ち付けながら、そう叫び続けます。その当時、どうして、そんな言葉を使っていたのか思い出せませんが、アニメやテレビの影響だったように思います。(普段はおとなしくてモジモジした感じで、丁寧な言葉遣いの息子です)

 しかし、癇癪が起こりひと目を憚らず、そんな言葉を大声で叫び続けるのです。
せっかくのサプライズの日だったのに…と、僕らは落胆しました。でも、そのサプライズを失敗させたくないので、その時は、僕と妻は、『作り笑い』で平常心を装っていました。「ほらほら、そんなことは言わないよ」程度のことは言いますが、それでは当然に収まりません。さらに強くパニックがひどくならないように、叱れない状況が続きました。ここで、定型の子と違うのが、「叱る」「諭す」ではどうにもならないという事です。頭の中が、パニックになったことの恐怖心で、過去の別の嫌だった体験まで、すべてがフラッシュバックしている状況なのです。他の発達障害児で同じような子をあまり見ないし、医師からも「特別に繊細」と言われている息子ですので、他のASDやADHDの子でも、同じようになるとは限りません。ただ、うちの子の場合は、そうなってしまうのです。叱れば、余計にパニックになっていきます。

それと同時に、「自分の母がどんな風に感じるのか」という心配。心配を通り越して、恐怖を感じさえします。

そして、通りすがりの人の冷たい目、ベンチで座る老夫婦の呆れ顔、少し強面の男の人の「うるせえな」という視線、きょとんとこちらを不思議そうに見つめる子供の瞳・・・

すべての視線に僕らは気づいているのです。
その視線に耐えながら、それでも僕らは、作り笑いをして、「ほらほら仕方ないわね」って程度の誤魔化したような言葉を発するのです。そんな状況でも僕らは・・・

―叱れないのです。
―言葉を遮って注意すら出来ないのです。

注意した時に、はるちゃんがどこに向かってしまうのかを僕らは予想できません。
その日が、崩れ去り、家でもパニックが収まらず、部屋で暴れ泣く、息子が見えるのです。

親として可愛そうにも感じ、『一番苦しいのが息子であること』を知っているからこそ、耐えるしかないのです。障害なのです。健常児の躾・教育で治せる、収まるものではないのです。

そして、僕の母に、それを「躾のない親として思われるのではないか」…とおびえるのです。
「あんた何やってるの?ほら見られてるじゃない?注意もしないの?」そう思われているのだろうと気が気でない状況でした。

そして、周りからの視線から、「情けない親だ」「わがままを許している馬鹿な親だ」「躾をしらない親だ」「俺だったら許さないで引っ叩くだろう」そういう他人の心の声が聞こえる
のです。仮に周りの人がそう思ってなくても、僕ら親の脳内は「完全に世間におびえている状態に入ります。きっと、そう思っているに違いない…と否定的な気持ちになります。

実際にこれは辛いです。
本当に辛い。
親にもプライド、自尊心があります。
それをズタズタに切り裂かれるような心理にさせます。

見た目では障害があるとは分からない少年だからこその…世間の冷たい心の声や冷めたい目。その声・目に、障害児の親はいつも耐えていますそして、叱らないで必死に世間の目に耐えるのは、「愛する我が子の今日という日を大切にしてあげたい」という、子供への「親の愛情」なのです

知的障害者・自閉症児の家族のために社会へ伝えたいこと(代弁)

自閉症児と健常者の躾は異なることを知ってほしい。

僕は、声を大にして言いたいのです。
愛する息子を守る為に。愛する妻の苦痛を少しでも和らげる為に。

―健常児と同様の躾や教育では、どうにもならないのです。

どうにかなるのだとしたら、大人への成長過程の中で、光が見いだせた時だけ。そして、その光は誰にでも降り注ぐとは限らない。どこにあるのかも分からない。

まずは、健常者で使う「躾」は、障害児の「躾」とは異なると知ってほしいと願います。

自閉症児・障害児の躾と健常児の躾が異なる「理由」を知ってほしい

自閉症児・障害児の躾と健常児の躾が別れる理由については、僕は下記のとおりに思っています。

健常者と障害児の育った先の「未来」が違うことが、躾の違いになる理由であることを知ってもらいたいと僕は思います。

健常児の向かう世界は「一般の社会」
です。一般の社会で挨拶が出来なければ、社会人として失格かもしれません。また、多少の気配り・他人への配慮が出来なければなりません。社会人として仕事につき、結婚して、子供を生み、子育てをする。そういったルートが線になるための「躾」が必要です。

でも、障害児の子供は「障害の世界」で最後まで生き抜くための躾なのです。グループホームに入ったり、一般企業ではない社会です。作業所に通う人が多い。そして、結婚は出来ない確率が高く、子供を持つことも出来ないでしょう。親なき後には、施設に入り、好きなものを好きな時間に食べることすら出来ない。そんな施設入所という未来が待っている。彼らには「介護職や周りの人に可愛がられる躾」が必要なのであって、けして社会の中で大きく活躍するための躾ではないのです。「いかに落ち着いた生活を送れるようになるか」「いかに人様に迷惑をかけないか」「いかに嫌な思い出を背負わないで、今後の生活につなげるか」そんなことを考えての躾になります。(一般企業に就職する障害者、自宅で生活する障害者もいます。それに活躍する障害の人もいますが、多くの障害児の親はそこまでを望みません)

だからこそ、健常児が生活する一般社会に出るための「躾」を押し付けないでほしいのです。

「自閉症児・知的障害児の躾は凄く難しい躾であること」を知ってほしい。

自閉症児の躾が大変で、健常児のママが楽をしているとは考えていません。そう思ってしまえば、健常児の2人の子供を育てている姉、僕を含めた健常児の3人の子供を育ててくれた母を否定していることになるからです。苦労のあり方が異なるものだと僕は考えています。

自閉症児と健常者の躾のあり方は根本的に異なりますが、実は、自閉症児の教育のノウハウを全てこなすことは、凄く難しいことだと僕は思います。自閉症教育の方法や学者の研究事例のように綺麗にやり遂げるのは難しいと、僕は思います。

「叱るな」と専門家は口を揃えていいます。

でも、それは教科書の世界です。障害児の親はみんな分かっているんです。でも、スーパーマンではないんです。耐えられないこともあるのです。カサンドラ症候群。親だって精神が参ってしまっていることもあるのです。
なぜなら、上記で書いたような自尊心を失うような瞬間に幾度もさらされます。
更に1日何十回と同じこと(確認行動=強迫性障害)を言われたり、せっかく心を込めてつくった料理も食べて貰えなかったり(偏食)もします。疲れ切った体で帰宅して、いざ洗濯物!なんて思ったら、台所を水浸しにされてしまっていたり…するのです。ママの心もバランスを崩します。ママの心がバランスを崩してしまえば、夫にあたることもあるでしょう。そうなると、当然に夫婦仲も悪くなったりしながら、離婚の危機を迎えることだってあるのです。

一度や二度なら我慢は出来ます。
でも、それが毎日なんです。

 
発達障害のある親は、スーパーマンではないのです。

でも、叱らずに耐えて、どうにか耐えていきます。それだけでも苦しい。
ところが、専門家の言っている通りに頑張っている親に対して、社会・世間は真逆の要求をしてきます。世間は「叱れよ、情けない親だな。躾もできないのか?叱るんだよ」というのです。もしかしたら、「求められることが専門家と一般社会で食い違っていることが、発達障害児のパパママを、もっとも苦しめていること」なのかもしれません。そして、そうであるのにも関わらず、その理解を専門家は社会に投げかけていないのではないかと思います。もっと、知的障害・発達障害に対しての理解を深める必要があのではないかと考えるのは、このことが一番の理由になるのかもしれません。

そういう心の声を感じながらも、自分だって叱りたい気持ちを必死に押さえて、必死に悔しさ・情けなさに耐えている時があるのです。

④ ①②③の総括。健常児の躾を押し付けないでほしい。「もしかしたら、障害があるのかも」と考えて、優しい目で見つめてほしい。

健常児の躾と書きました。
それは、自閉症児・知的障害児の躾もある前提です。

よく知ってほしいのです。

例えば、「そんな言葉を使ったらいけません」と注意する。時に、馬鹿やろうと怒鳴り、げんこつをする。それは、健常児の躾です。そんな乱暴な方法でも、(僕もそうやって育てられたので同じ気持ちもありますが)親の愛情を感じれとれるのが健常児です。僕は思い出します。父に叱られ、玄関から出され、母が迎えに来る。それで、自分が悪かったと父に謝った少年時代を。でも、健常児の僕は、古き良き思い出に変わるのです。(※ けして、それを健常児にしていい躾とは思ってませんのでご理解を。今では、それを虐待と捉える人もいます)

かたや、障害児においては、怒るという淡白な方法を選べない。同じ様な形で怒ったとします。それは失敗に繋がります。なぜなら、もともと自己肯定感の低い自閉症児においては、怒ることに「親の愛情がある」のだと理解できない。そのために、一度怒ってしまえば、親への恐怖しか残らない可能性があります。そして、その恐怖は、「忘れられない障害」でもある子どもたちにとっては、永遠にトラウマとして残ってしまう可能性があるのです。僕はステップファミリーであるが故、この点には、凄く怯えていました。「叱る」「怒る」でなくても、『嫌われたら終わりだ』くらいには思っていたのです。

だから、僕らは叱らないし、叱れないのです。
もしも、その点を社会が知っていてくれたなら、僕はどんなに精神的に楽か。
別にすべての人でなくても、側にいる誰か1人でも良いのです。
本当に、ほっとすると思います。

町で見かけた子供の様子が少しおかしくても、そこにいる親がなんの注意もしなくても、
「あ、もしかしらあの子は、見えない障害(発達障害)がある子なんだな・・・あれが躾だ。お母さんも叱らないで耐えているんだ」そう思っていただけたら、沢山の障害のもつ子の親がきっと救われると思うのです。

けして「変な子」なんて思わないで欲しい。見た目が健常者でも、知的障害があるかもしれないのです。そして、親に対して(「耐えていて偉いね…と考えて」とは言いませんが)けして「駄目な躾」「駄目な親」なんてレッテルを貼らないので欲しいのです。

僕が知っている限りで知的障害・自閉症児のママは、
子どもたちに振り回されながらも、必死に生き抜く、素晴らしいママたちです。我が子のために、歯を食いしばって、世間の目に負けなず愛情を注いでるママたちです。

凄いママたちなんです。

その事を社会が理解してくれたら、きっと、わずかでも障害児の家族は精神的に穏やかになるでしょう。それが、障害児の教育を良い方向に循環すると僕は思います。

⑤社会の優しい・温かい目、それは障害児の療育にも良い

僕の家では、精神的に追い込まれた妻と何度も何度も喧嘩をしました。
僕は、妻から許せないほどの侮辱を受けたこともありました。僕の父は亭主関白でした。そういった家庭で育った僕ですから、妻に牙を向けたい心理になったこともあります。

せっかく築き上げた息子との信頼関係も、妻との喧嘩であっという間に崩れ落ち、1から出直し…それも何度も経験しています。妻は喧嘩をして癇癪になると、「あの人をパパと思わなくて良い。これからはママと二人でまた暮らそう」と泣きながら息子に言い出していました。その時の僕の苛立ちは、本当に頂点になっていました。

妻を怒鳴りたい気持ち、やるせない気持ち、やり場のない怒り…それを越して「恨み」さえも抱くこともありました。逆に、逃げ出したい気持ちにもなることも何度もありました。「離婚する!」と怒鳴る妻を冷静に断り続けましたが、そういった時は、離婚の印を押す自分をイメージして、「そっちの方がどれほどに楽だろう」と何度も思ったのです。妻との関係においては、奈落の底の底まで落ちていたのが本当です。

―でも、僕は知っていました。妻の辛さを。

「世間の目」は憎しみをもった呪いの目。そんな風に妻は思っていたことでしょう。それに対峙して、心を壊されながらも、必死に生き抜こうともがいている妻。僕は、いつも思っていました。

-これは本当の妻ではない。僕が好きだった妻ではない。世間の冷たい目に壊された妻

それを理解すれば、僕に当たり散らすことも仕方ないのではないかと思っていました。
だから、僕は妻から侮辱されて罵られても、「妻が世間の目に罵られて耐えるなら、妻からの罵りに自分は耐えてやろう」「いつかきっと、幸せに満たされた10年後に思い出したら、今が一番つらい時期になる。だから、耐えろ」そう思っていました。いつか美徳に変わると信じていたのです。

妻を暴力を使って押しつぶし、ひれ伏させるのは簡単です。力は男の方があるのですから。でも、それは本当の強さではありません。「それ(暴力で誤魔化す)よりも、強い男は、耐えることが出来る男」だと信じていました。それが、養子縁組をして、妻を嫁に貰った本当の意味の「責任」と「愛情」だろうと思ってきました。

僕は、妻の「息子に対するその深い愛情」を知っています。
深い深い子供への愛情を。

そして、子供に対して、障害を持たせて生んでしまった「罪」の意識を持ちながら、泣きながらも前に進もうとする、その強さを・・・僕は、知っていました。
それが、妻を美しいと思う理由であり、僕の妻への愛情に変わっていきます。

けして、支えようと思って、結婚したのではないのです。
そういった子供への愛情が、妻の魅力であったのです。僕は、妻と結婚して、知的障害児・自閉症児の息子を養子縁組をすることで、僕が幸せになれると思ったから、結婚をしたのです。母としてのその深い愛情は、妻を清らかで美しい人にしていることを理解していました。

ただ、その時の家族環境は本当に酷かった(笑)
結果、子供にとっても辛い時間だったのではないかと思います。

僕らは、「知的障害があるから」「自閉症があるから」と背伸びをしてがんばります。つらい世間の目があっても耐え忍ぶことが『愛情の証』のように感じて、無理をします。知らず知らずのうちにストレスをためているのでしょう。

無頓着な僕は案外に精神も丈夫ですが、妻はそうはいきません。
四六時中こどもと接し、その分、精神的にも追い込まれていると思います。
その多くが、

『息子を障害児に生んでしまった罪悪感』

『社会や世間との接点からくる理解のない視線』

から来るものではないかと思います。(当然に世間の中に、理解のない夫も含まれると思います)

時に、障害児のママは疲れてしまいます。
多くのママ(パパもかな)精神薬を飲んでいるのです。疲れてもがいて苦しんで、自分に余裕がない状態になっているのなら、その状態で最良の療育なんて出来るわけがありません。結果、良い療育・育児が出来ないから、子供は荒れ、また、自分も荒れていく…そんな悪循環にはいります。

「自分の子供を理解したい」それは親なら当たり前のことです。
でも、理解しきれないジレンマ。それにも、苦しむみ精神的にも疲れてしまうのです。
そして、時に、自分が健常者であることさえもの苦痛に感じるのです。
「自分が子供と一緒の自閉症なら、少しは子供のことを理解できるかも」とさえ考えてしまうのです。

そんな中で、自分のこころがモラルに反していくことに怯え、凛としていきたい理想とのギャップに苦しみ、そして、ついには心が静止してしまうこともあるのです。自分の心に対して、ネグレクトになり、ストレスから闇に転げ落ちるのです。社会に、その苦しみをもっと理解して欲しいと僕は願います

僕ら障害児の親は、もがき・苦しみ・疲弊しながら、我が子を心の底から愛しているのです。
そういった奥深い所まで理解して、

「社会・法律・制度には、家族を引っくるめて手助けして欲しい、理解して欲しい」と切に願います。家族のこころの安定が、子供の療育には最良なのです。

家庭環境は、子供の療育に大きな影響を及ぼします。
どんなに良い教育機関であっても、家庭内が安定していなければ、けして良い療育・良い結果には結びつきません。
そのキーマンはママになるのだろうと僕は考えます。ママが精神的に落ち着いて、我が子を見つめることが出来る。それが、ベストです。パパはママを支える立場。しっかりとサポートをする。パパがいない家庭、ママがいない家庭もあるかもしれませんが、理屈は一緒です。
家族のこころの安定が、良い療育に導くのは変わりがないと思います。

そして、子供が落ち着くことで、結果、保護者様の心も安定して、さらに良い療育に変わっていく。そんな好循環になっていくのが理想的だと僕は思います。

社会・世間は、そのこころの負担を少しでも軽減してほしいと願います。
無理解な視線や理屈で障害のある家庭を見つめるのではなく、優しい目で見てほしい。
近くに、こういった理解がある人がひとりでもいてくれたら、きっと障害児のママには大きな勇気になるのではないかと思いますし、こころの安定に繋がるのだと思います。
しいては、その家族のこころの安定が、障害児の療育にも大きく良い影響をもたらすのだと僕は信じています

 最後に…(まとめ)

ここまで、くどいくらいに障害児のママ・パパについて書きました。
どうかここに書かれたことを理解してほしいと、切に願っています。

沢山の幸福をくれる我が子です。
そこには、健常児も障害児も関係ありません。躾の仕方の方法は異なりますが、障害があっても、我が子に向けた愛情はなんら変わりがありません。子供から貰える幸福感も変わりがありません。障害児の親は、たしかに大変でもありますが、だからこそ「可愛い」のだと。辛くて吐き出しそうな時も、子供から離れられないのは、障害の有無は関係ありません。

どうか理解してほしいのです。
躾をしていないわけではなく、「耐えることが躾」である障害児家族のことを。

社会に対して、障害者家族について理解してほしいと望むことは、本当に難しいことです。
また、それは図々しいことのようにとさえ自分は思ってしまいます。
そして、それが万人に届く世の中になるとは、僕には到底思えません。

でも、このブログが1人でも多くの人に読んで頂き、理解を得られ、「たった1人でいいから、障害児のママに優しい気持ちが向けられたら」と…切に願います。

どうか神様、
1人でも子育てで苦悩し疲れてしまう家族が減りますように。
障害児のある家族が柔らかくて、清らかな微風を感じれる…そんな社会になりますように。

ぼくは、
こころから…

祈ります。

※再編集 2024年2月22日

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