少しでも社会が理解してくれたら嬉しい『発達障害児パパママの気持ち』(前編)

息子との日々の記録




最初に、

今日のブログは本当に多くの健常者・社会に読んでほしいと思います。
社会と表現すべきか…世間と表現すべきか。

障害児=可愛そうとかのそういう短絡的な視点ではなく、もっと内面に目を向けて欲しいと。

障害児が少しでも、自分らしく生きて欲しい。
その保護者の多くの方に、『世間の目に怯えること』なく幸せを感じて欲しいと願います。

昔、まだ僕が若かった頃、僕がたまたま出会った「変な人」と避けた人。
もしかしたら、未来の僕の子供もそう思われるのかもしれない。

また、電車の中で騒いでいた子供に注意をしない親に対して「なんで注意すらしないんだ。子供をあまやかしすぎだろ」と思ったことがある。それは、今の僕と同じ、自閉症児の親子だったかもしれません。

無知だった自分が恥ずかしい

と、今は思うのです。
障害のことを知っている「優しい男」のつもりでした。でも、何も分かってはいなかった。僕は無知だった。分かったつもりが、一番格好悪いし、社会に迷惑。自分が障害児と養子縁組して、障害児のママと結婚して、「はじめて知った」その辛さを上手く書きたい。

よく障害関係のHPなどを確認する。
そこには、オブラートな世界しか描かれない。当然といえば、当然だが、「自閉症児・知的障害児」その子にしか目が向かない。でも、その子の『親』にも目をむけないと正しい認識ではない。

世間・社会に対して、「お前らは無知だ」という気はない。でも、世の中に少しでも、本当に少しでも良いので理解を深めて欲しいと願います。だからこそ、世の中に、知的障害・自閉症・強迫性障害・注意欠陥多動性障害など発達障害について知ってもらう為に、今日のブログを書きたいと思います。

ただし、子供には目をむけません。その子を育てる親にスポットライトを当てたいと思います。それは、なぜか?障害児の行末・未来を考える際に、親の精神状態は切っても切れないものだと思うからです。

精神的に安定している家族と精神的に不安定な家族では、子供の育ち方が違うと思うのです。そこには、母子家庭だから駄目だとかは含みません。あくまでも、親の精神が安定することを僕は願うのです。

自閉症児・発達障害児の保護者には、葛藤がつきものだと思います。
自閉症、知的障害の子育ては幸福感が続くことは難しく、ちょっとした事で、混乱の渦に巻き込まれます。また、難しいのが、直接関わる子供の混乱だけが、その苦悩に思われがちですが、実際には、間違った認識のもとに『世間の目』に晒されることこそが、保護者の一番の苦悩や苦痛に繋がるのです。

障害者・障害児の『躾』が、健常児の『躾』と異なる」ことに対して、社会に理解が少ないことを中心に考えながら、「社会に知的障害児・自閉症児にこう見つめて欲しいという訴え」を記載したいと思います。

知的障害・自閉症の親が子供を叱れない理由を知ってほしい

社会は自閉症児・発達障害児に対しての理解が少ないと思います。
どこの理解が足らないのか?それは、多分、障害児の家族に対しての理解です。障害を理解する際には、知的障害児・自閉症児だけを見つめる理解では足らないと僕は思います。「家族の心理を含めた理解」でないと、「知的障害児・自閉症児を理解した」とは言えないと僕は考えます。

(正直、理解をしてほしいと望むことも間違いではないかと思う時もあります。なぜなら、それを恩着せがましいと感じる人もいると思うからです。実際に、このブログの内容を読んで、障害児の親を誤解する人がいました。僕は、権利主張的な意味は込めません。ただ、友達を大事に思うように、批判的な目ではなく、ご理解を頂けたら幸いという思いでこの記事を書いています)

親として、世間の目が怖くなる瞬間をあげてみたいと思います。
子供が次のような状況だった時をイメージしてみて下さい。自分の子がこういうことをしたら、自分は叱るだろうか?自分は恥ずかしいと感じるだろうか?そういうことを辞めて!と子供に諭すだろうか?そういう目線で考えて見て下さい。自閉症児・知的障害児の世間から見たら、おかしいな?と思う行動を列挙します。

 どうでしょう?これを注意しない、怒らないは間違いかもしれませんが、そういった時に、うちではかなり繊細に注意の仕方を考えているんです。定型(健常)の子であれば、僕でも叱ったり、諌めたりするシーンはありますが、障害の子ではそうはいきません。

こういった行為の多くは、障害があるが故におこる子供の行動であって、親の躾ではどうにもなりません。そして、どうにもならないことを親は知っています。それを、教育・躾という言葉に置き換えて、何とかしようとすれば、(怒ったり、注意したりするだけでも)(一晩中)子供が混乱して眠れない事態になり、パニックが続くことを親は知っています。そうなった時の子供の辛さ、それに向き合う自分(親)のこころの疲弊を理解しているから叱らないのです。注意すれば注意するほど、混乱が続く時もあるのです。

 また、自閉症児の教育においては叱責がタブーであることを、親は理解しているので、叱らないのです。世界中の学者が、(健常児も含めますが)自閉症児・・知的障害児を怒ることはナンセンスだと言っているのです。それでも、社会・世間は、障害に対しての理解が乏しい故、

―いやいや、躾がなっていないだけだろ
どうしようもない親だ。あんなんだから子供が…

と考え、影でその言葉を言い放つのです。
障害児の親になると分かります。叱る・打つなどでは躾を学ばせることは出来ません。もしも、それらの方法以外でも「躾」として学ばせるのであってもそれ相応の時間が掛かります。

「躾が出来るはずだろう」「怒れば何とかなる」そういう理解のない「目」が、「知的障害児・自閉症児」の親を苦しめるのです。

障害児の親は「謝ってばかり」

ここで、誤解のないように記載したいと思います。実際には、ほとんどの親は、「謝罪」の繰り返しになっていることが多いです。他害をしても、「障害児で、叱れないから仕方がないだろう。だって、夜も息子は眠れなくなるし、障害があるんだから周りが理解しろよ」という親は、まずいません。以前、このブログを紹介した時に、勘違いをされ、「私の子供は障害児で叱れないので他害があっても、仕方ないなんて…そんなの馬鹿な親だわ」と批判されたことがありました。そんな障害児の親に、僕は出会ったことがありません。他害や人に迷惑をかけることに、どれほど心配しているか。そして、それらが起きた時に、どれほど悲しみ、どれほど申し訳ない気持ちで満たされているか。「障害児の親の気持ちを理解してほしい」そう願うものの、万人の人への理解を求めることは難しいのは、分かっています。ただ、ほんの一人でも味方になってくれる人がいたら、嬉しい…僕はそう思っているのです。

ほとんどの親は、ことあるごとに、「申し訳ありません」と謝罪の繰り返しになったりしています。電車で落ち着きがなければ、謝り、叱るふりをする。叱ってはいけないと思いながらも、社会の目を気にして、叱る。そして、後悔をする。自分の身内(義理の母や親類など)にすら批判され、そして謝ることが増え、そして、親類の集まりからも離れていく。そして、「躾がなってないし、出来ないのよね」と保護者は、無能扱いされたりもしている。

「障害児を産んだ」だけで、親の自尊心も傷つけられていくのです。「障害児を産んだだけ」と記載はしますが、「障害児で産んでごめんなさい」という子への罪悪感までもって生きてしまうのです。

その謝罪の繰り返しの中で残るのは、『孤独感』に他なりません。「もう、誰ともかかわらないで、この子と二人で…」と逃亡の気持ちさえわくのです。

親の精神力、カサンドラ症候群

 障害児と一緒に暮らしている親は、「この子だけは私が。私だけは見捨てない」と苦悩の日々を暮らします。そして、障害受容を何度も繰り返すのです。何かが上手くいけば、何かが崩れる。そんなことはよくあるので、「喜びと悲しみの浮き沈み」の中で、何度も自分を奮い立たせているのです。それは、とても精神力が必要なのです。

 そして、自分のキャパを超すことが何度も起こります。adhd(注意欠陥多動性障害)の子などは、興奮状態が続くので、眠れないことが多いのですが、親はそこに付き合わないとなりません。眠れない日々が続く中で、トラブルが多くなると、精神的にも参ってしまいます。

 そして、そこを肥大化させるのは、「障害で産んでしまってごめんね」という子に対する罪悪感そこから派生する責任感です。

 罪悪感と隣り合わせの責任感。張り詰めた一本の糸。それは、子供の成育が上手くいかなかったり、保護者の体力的なピークによって、すぐに切れてしまう、弱くて脆い一本の細い糸です。その糸がギリギリに保たれている状態の時の「社会の冷たい声」は、磨かれたナイフのように思えます。

病気と障害の違い

 また、「障害」と「病気」を混同している人が沢山います。
 障害は、治りません。今の医学においてですが、「治らない」のです
「病気」は治るチャンスがあります。

 時折、「頑張れば、きっと治るよ」なんて言葉をおっしゃる人がいます。
 それは親切心から言ってくれているのは分かりますが、端的に言います。治りません。そして、親にとっては苦痛の言葉になるのです。その言葉は両親を苦しめ、悲しみを増します。今の医学において言えばですが、「腕がなくなった障害の方に、手が生えてきます」と言っているようなものです。

 ※ただし、誤解の無いように付け加えたいと思います。方向性を導くことは出来ると思います。いわゆるSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)です。方向性を見出すというのは、本人が「理解」をもとに行動化できるというものではありません。練習によって、それを身に着けるというノウハウです。それであっても、時間はかかるものです。

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知的障害/発達障害は見た目では分からない。

そして、自閉症・知的障害は見た目では判断出来ません。
知的障害は、健常児に見えますが、脳が障害をおっているのです。僕らが見えている世界、僕らが感じている世界と異なるものを見ているかもしれません。それはとても恐いことです。

『感覚過敏』という言葉があります。

 うちの息子でいうならば、「耳」が強く、世間の多くの音を捉えてしまっているように思います。その中から必要な音を拾うことが難しい。結果、音に過敏になり、「うるさい!!」となってしまう。それは当事者でないと分からない怖さがあるのだと思います。

 自己表現の仕方が分からない人もいます。ましてや、言葉で表現が出来ない人もいます。訴える方法(言語・ゼスチャー・表情…)を持っていない人もいるのです。それは、健常者には分からない苛立ちを生み出します。だからこそ、不満やストレスを人一倍に抱える。

 その恐怖。その衝動。それは、健常者の僕らには理解できないものでしょう。
だから、奇声をあげる。

 考えてみて下さい。恐怖映画をみてると、お化け屋敷に入ると、ジェットコースターにのると、みんな奇声をあげますよね。あれくらい、障害児にとっては、世界は恐いのかもしれません。奇声をあげたからと言って、変な人ではない。脳を考えれば、普通のことです。

 人一倍の怖がり。脳の障害。

にも関わらず、見た目は健常者と変わらない。見た目では分からないから、「躾で何とかなる」「変な人」という。だから、社会は知的障害者のことをネガティブに捉えて、考えてしまうのではないかと思います。自分の可愛い子を「変な子」と言われる保護者の気持ちを知ってほしいと願います。

まとめ

 見た目は普通ですが、知的障害があり、もしくは自閉症など発達障害があり、言葉の理解がなかったり、妙なこだわりがある子供たち。時に、社会では異質に見えるのかもしれません。それでも、僕ら保護者からしたら、可愛くて、可愛くて仕方のない子です。子供たちの普通ではないくらいな「純粋さ」に心が打たれていたりもします。10歳の時に、4歳ぐらい知的しかなく、たどたどしい知能しか持たず、甘えてくるわが子は、本当に誰よりもかわいいものです。

 ですが、「生活」にはいろいろな問題が起こります。そして、周りからの冷ややかな目に耐え忍ぶ日々が続きます。そして、叱ることは発達障害の専門的な教育・療育論ではタブーだから親は叱らくなります
 でも、周りは、その親を「だらしない」「躾が出来ない」親と言い出します。
 それが一番、その家族を苦しめ、しいては、家族を混乱させ、当然に良い教育が出来ないところまで追い込みます

 なんで?

 親は、そういった社会の目に疲れ、精神がまいってしまい、正しい教育ができなくなるのです。例えば、叱ってはいけないはずの自閉症児を、世間の冷めた目に耐えられなくなって叱ってしまう。さらに、わが子の上手くいかないこと(問題行動など)も続いていく。終わりのないように思える育児と、今後先々の我が子への心配と不安も重なっていきます。うまくいかない育児・教育の中で、他の子と比べてしまったり、遅れている自分の子に対してもがき、悩み、落ち込み、悲しみ、悩んでいます。その悲しみや悩みの数だけ、保護者は強くもなりますが、途中で大きな挫折を感じて、倒れてしまう保護者もいます。

 これまで一般常識の中で生きてきた保護者が、「障害児」を産み、その葛藤の中で日々を生きている。

 分かってほしいのは、けして、その保護者様は、「躾のできない親」ではありません。寧ろ発達障害児の保護者様は、はるかに「躾」について考えている親だということです。だから、躾が出来ていないと決めつけないで温かい目で見守ってほしいと願います。

後編はこちら↓

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