この話題から文章を作ることになるのがつらいですが、この話題から作っていきたいと思います。
僕は、息子が障害があることと高齢者福祉をしている自分に常にジレンマを感じてきました。自分は福祉が大好き人間です。高齢者介護は本当に天職だと思って仕事をしていました。しかしながら、常に「ジレンマ」に駆られていたのです。「息子が障害があるのに高齢者介護をしているの?障害者の福祉をするのが親心でしょ?」その疑問が常に頭にあったのです。僕は高齢者介護が大好きだけれど、息子の障害を背中に背負って何か悪いことをしているような…そんな感覚だったのです。その後ろめたさを払拭するかのように、「放課後等デイサービス」の職員に転職したのです。転職しても高齢者介護の時と同じように感じることがあります。つくづく思う事は、「福祉というのは常にジレンマを感じる仕事だ」ということです。
「少し困りごとがある人々の集まりである福祉現場」には、人と人が絡み合う葛藤がつきものです。福祉職というのは、「誰かによくしてあげると誰かが不満や悲哀を感じる」というジレンマと常に向き合う必要があります。このことをどう乗り越えていくかこそが福祉の醍醐味であり、福祉職に就く人の『仕事ができる人と出来ない人の差』だとさえ思っているのです。常に、その葛藤と向き合うには、「自分のポリシー」「どうしても曲げられないこと」「大切にしている倫理観」が必要なのです。すべての人を大切にする。それはとても難しいことですが、それがとても大切なのです。
思えば、「息子が障害があるのに高齢者介護をしているの?障害者の福祉をするのが親心でしょ?」この葛藤も僕が福祉をしているからこそに巻き起こるジレンマでした。自分でいうのもなんですが、僕は福祉が大好きだから、このジレンマにぶつかったんだと思っています。
さて、本題ですが、僕は昨日にある生徒をしかりました。そこには葛藤があるのです。叱るのがこんなに自分の精神を苦しめることはありません。「叱っちゃだめ」そんなことは分かっているのです。でも、福祉だからこそ、常に巻き起こる葛藤(ジレンマ)がつきまといます。
例えば、帰りの送迎である市営団地に生徒2名を送ります。その内の一人A君が「お腹と頭が痛い」と言ってしゃがみ込みます。その時に、別の生徒Bさんが「おうちに帰りたくない」と言い出します。叱ることもなく、「どうして帰りたくないの?」と聞きます。すると、「あの時、○○くんが私のことをバカにしたから」と始まります。実際には、バカにして言った言葉ではないので「バカにはしていないよ。大丈夫だよ」と伝え、「今は○○ちゃんがお腹と頭が痛くて」と理由を伝えますが、「そんなのどうでもいい。私は動かない!お前は向こうにいけ」となるのです。その後ろで泣きながらA君が「頭がいたい。はきそう…」というのです。団地に住んでいるので、エレベーターですぐに送れるわけですが、Bさんを置いていくわけにもいかないのです。再三の説得にもBさんは応じません。ない頭を使って、A君の状態とのジレンマを感じながら、「叱るか諭すか」の選択に自分はさらにジレンマと葛藤を重ねていきます。
そして、「あと少しで怒るしかなくなるよ」と伝えて、僕は叱るを選択するのです。
叱られたBさんの気持ちを考え、A君を送ったあとにBさん宅を訪れて僕はBさんに謝ります。「叱りたくなかったけれど、君の気持ちを考えたら叱りたくなかった。ごめなさい」と大人に謝罪をするようにしっかりと頭を下げるのです。そして教えます。「お友達が頭が痛い。体調が悪い時には、自分の時のことも考えて協力しなきゃだめだよ」と。そして、帰る間際に「君が大切で、君が大好きだよ」と言って帰るのです。
そして、そういった「叱る」をする子は限られます。どうしてもこれから社会にでることになる支援級クラスの子でトラウマが残らない子たちです。叱る時には必ず「君が大好きだから叱ります」と伝えています。怖い顔をしますが、最後は必ず笑い「君が大切です」と伝えるようにしています。「かっこいい男になれ」「正しい判断ができる人になって」そう伝えます。
それから、自宅に戻り、「自分が正しかったのか?」と再びジレンマに駆られます。でも、僕はそのジレンマの中に必ず、自分の信念を持つようにしています。「すべての生徒を大切に想うこと」という信念です。僕は間違いも起こします。でも、その時は、子供であれ、しっかりと謝ります。プライドもくそもない…そう言われるかもしれません。でも、僕には生徒は大切な「人」たちです。僕に喜びも悲しみも苛立ちも与えてくれる子供たちです。僕が与えているのではなく、僕が彼らからギフトを貰っているのです。だから…
さて、具体性があったかなかったか、今日はこんな話で終わります。あんまり頑張ると続かないから(笑)